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2026.07.17

ロン・ミュエク展とスマートフォンの森

雑記

かつて新年の抱負として「身長を2mにする」と宣言したことがある。
進捗を報告すると、進捗はない。
それどころか人体は加齢とともに縮んでいくらしいので、目標との乖離は今後拡大する見込みである。

ところが先日、この目標を涼しい顔で達成している10代の少女に出会った。
水着姿で美術館の壁にもたれ、目を伏せていた。

森美術館で『ロン・ミュエク』展が開催されていたので行ってきた。

ミュエクはオーストラリア出身・英国在住の彫刻家で、実物の人間より遥かに大きく、あるいは小さく、しかし毛穴の一つまで精巧な人物像を作ることで知られる。日本での個展は2008年の金沢21世紀美術館以来、実に18年ぶり2度目だそうだ。カルティエ現代美術財団との企画で、パリ、ミラノ、ソウルと巡回してきた展覧会である。全作品あわせても50点に満たないという寡作の人で、今回の展示も11点。ただしそのうち6点が日本初公開だという。

https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/ronmueck/

地底人、地上230mへ

会場は六本木ヒルズ森タワーの53階。
私はどちらかといえば地底人であり(地底人は日光に弱く、移動は原則として地下鉄である)、通常は地表に出るだけで相応のデバフを負うのだが、今回はそこからさらに地上230m付近まで垂直に連行されなければならない。
上昇するエレベーターの中で耳がキンとした。もし耳抜きに失敗していたら「ちょっと〜、地底人を高度200m超に曝露させないでね!」という鋭いツッコミが六本木ヒルズを両断していたところであった。

チケットは日時指定のWeb予約制なのだが、Webでクレカ番号を直接入力するのがどうにも嫌なので(Webスキミングが怖い)、枠に空きがあれば当日窓口でも買えるという情報を頼りに突撃した。
買えた。オンラインより200円高い2,300円。この200円は私のセキュリティ意識の対価であり、経費では落ちない。

それにしても入場までの動線がすごい。改札のようなゲート、整列用のポール。
美術館に来たというより人気アトラクションの列に並んでいる。
この第一印象は後から効いてくるので覚えておいてほしい。

巨大な女性の呼吸を待つ

最初のほうの部屋では、巨大な女性がベッドに横たわっている。
《イン・ベッド》、全長6.5m。頬杖をついて、何か気がかりなことでもあるのか、視線は斜め上の何もない空間に固定されている。

巨大な人間を前にしたとき、人がまず何をするかご存知だろうか。呼吸の確認である。胸元が上下していないか、まばたきをしないか、私は息を潜めて待った。私のほうが息を潜めてどうする。

産毛が見える。毛穴が見える。唇の乾き具合まで見える。
小説というメディアは解像度のコントロールが自由で、「見せないこと」「暈すこと」によってぼんやりした像を巧妙に結ばせられるのが強みだと常々思っているのだが、ミュエクはその真逆を行く。解像度を上げられるところまで上げておいて、代わりにスケールを狂わせるのだ。写実の極点まで詰めた上で、大きさというたった一つのパラメータをずらすだけで、対象はこの世のものではなくなる。彼女はどこからどう見ても「人間」なのに、この世界の縮尺と合っていない。合っていないのはこちらの方かもしれないが。

そして問題は、ここがどう見ても彼女の寝室だということである。他人の寝室に立ち入り、他人の悩み顔をまじまじと観察する行為に正当性はない。心の内で謝罪した。私はいつも美術館で謝罪している。

見てはいけないものを見ている

冒頭で話した10代の少女は《ゴースト》という作品である。
身長約2m。壁にもたれ、顔を背け、全身から「見られたくない」を発している。

ここで鑑賞者は困る。作品は見るためにあるのに、この作品は見られたくなさそうなのである。見れば見るほど、こちらの視線の内訳が問われてくる。お前は今、どういう立場で、何の権利があって、他人の思春期の居心地の悪さを凝視しているのか?と。

そこへスマートフォンの群れがやってくる。目を逸らす少女に向かって、四方からレンズが伸びる。念のため書いておくと撮影は許可されている。許可されてはいるのだが、彼女が本物だったら全員通報されている構図ではあった。

舟、寝顔、頭蓋骨

《舟の中の男》は薄暗い部屋にあった。木製の舟の舳先に小さな裸の男が前傾姿勢で座り、進行方向をじっと見据えている。舟にはオールがない。つまり彼はこの航行に対して一切の主導権を持っていない。

福永武彦の『冥府』という小説を思い出した。自分が死んだという確信以外の記憶を持たない男が、奇妙な死後の世界を彷徨う話である。この男もどこかへ運ばれている途中に見える。行き先は本人も知らないようだが、顔つきから察するに、楽しい場所ではない。どうでもいいが「オールのない舟」で人生を暗示されると、私のような漕ぐ気のない人間は身につまされる。せめて流されている自覚だけは携帯していきたい。

《マスクⅡ》は作家自身の顔を巨大化して横倒しに寝かせたものである。自分の寝顔を全長1m超で成型して世界中を巡回させる。私がやったら親族会議ものの奇行だが、不思議と嫌味がない。寝顔というのは人間の無防備の極致であり、巨大であっても、いや巨大であるほど、こちらは守衛のような気分にさせられる。眠りを守る側に回されるのだ。

他にも、鶏と至近距離で対峙する男《チキン/マン》や、買い物袋と乳児で両手も胸元も塞がった小さな女性《買い物中の女》など、どれも一言では済まない気配を放っていたのだが、全部書いていると日が暮れるので割愛する。

そして終盤、《マス》。一つの展示室を丸ごと使い、下顎のない巨大な頭蓋骨が100個、壁際に高く積み上げられている。照明は青白く落とされ、通路は骨の間を縫って蛇行する。歩ける納骨堂である。パスカルが『パンセ』で、永遠に沈黙する無限の空間を前にして戦慄する、というようなことを書いていたが、あれの物量版と言っていい。百の沈黙が青白い光の中に積んであった。

ところで、この部屋で私は初めてスマートフォンを取り出した。撮った。骨は文句を言わないからである。

マス(ロン・ミュエク)

撮ってから気づいた。おい。

スマートフォンの森

ここから本題に入る。

会場のどの部屋にも、スマートフォンの森が生えていた。作品を直接見ている人より、画面越しに見ている人のほうが多い瞬間が普通にあった。二人組で来て、交互に作品の横に立ち、撮り、画面を確認し、撮り直し、次へ進む人々。撮影は公認である。それどころか森美術館は公式にハッシュタグをつけた投稿を促すキャンペーンまでやっていた。つまりこれはバグではなく仕様、それも推奨環境なのだ。テーマパークだという第一印象は正しかったわけである。

展示物が「自分がイケてることを示すための小道具」として消費されることへの残念さなら、これまでも方々の展覧会で薄々感じてきた。ただ、今回の違和感は、それと地続きではあるがもう少し別の場所にある。

まず単純な事実として、写真はスケールを殺す。
基準になる物が写り込んでいない限り、画面の中で6.5mの女性は等身大になり、2mの少女はただの少女になる。ミュエクが操作している唯一にして最大のパラメータ――大きさ――は、JPEGには保存されないのだ(もちろんWebPにも保存されない)。この展覧会は原理的に「撮っても持ち帰れないもの」で出来ている。にもかかわらず、あるいは、だからこそ?皆撮る。ミュエク本人は、皺を見てほしいのではなくその人そのものを見てほしい、という趣旨のことを言っているらしいが、会場で行われていたのは主に毛穴の接写であった。

会場を回りながら考えていたのだが、あれは記録ではなく防衛なのではないか。

ミュエクの人物たちは、鑑賞者を落ち着かない場所に立たせる。見てはいけないものを見ている感じ。視線の正当性を問われる感じ。大きさに威圧され、あるいは小ささによってこちらが加害側に配置される感じ。この居心地の悪さこそが作品の効能だと思うのだが、スマートフォンを構えた瞬間、それは消える。フレームに収めた途端、相手は「他者」から「被写体」に格下げされ、主導権がこちらの手に戻ってくるからだ。撮ることは撮られるものを所有することだ、というようなことをスーザン・ソンタグが言っていた気がするが、所有とまでは行かずとも、少なくとも一時的な鎮圧ではあると思う。

ゲームで言えばフォトモードである。起動すればワールドは停止し、敵は脅威でなくなり、カメラだけが自由に動き回れる。またゲームで例えてしまったが、しかし作品の前で次々にスマホが持ち上がるあの光景は、圧倒されかけた人間が反射的にフォトモードを起動して圧を逃しているように、私にはどうしても見えたのだ。

せっかく向こうから圧倒しに来てくれているのに。日常で、他者にあれほど正面から揺さぶられる機会などそうそうないのに。皆、揺さぶられた0.5秒後にはレンズ越しの安全圏へ退避してしまう。圧倒されるためにチケットを買い、圧倒された瞬間にそれを無効化する。私の違和感の中身は、たぶんこれである。

ただし、である。思い出してほしいのだが、私がシャッターを切れたのは骨の部屋だけだった。肌があり、表情があり、視線があるものは撮れなかった。撮ることが、生きて(いるように見えて)いるものへの何らかの狼藉に思えたからだ。裏を返せば、私もあの緊張に素手で耐え続けることはできなかったということである。彼らは最初の部屋でフォトモードを起動し、私は最後の部屋で起動した。違いは閾値だけで、機構は同じなのかもしれない。偉そうに書いてきて申し訳ない。心の内で謝罪した。本日二度目の。

等身大のロン・ミュエク

展示の合間と最後には、写真家・映画監督のゴーティエ・ドゥブロンドによるスタジオ写真と記録映像があった。25年にわたってミュエクを撮り続けている人だそうだ。映像の中のミュエクは、黙々と粘土を盛り、目玉パーツの成型にしくじり、スタジオに来るカラスに律儀に肉を分けていた。あれだけ人間を圧倒的なスケールで作る人が、映像の中では完全に等身大なのが妙に良かった。

そして少し可笑しかったのは、彫刻の前では一歩も動けなかった私が、この映像は何の緊張もなくぼんやり眺められたことである。カメラを一枚挟むと、ミュエクですら安全に「見られるもの」になる。撮影者たちの気持ちが、ここで少しだけわかってしまった。わかりたくなかった。

地底人の帰路

帰りしな、ショップで図録を買った。写真がスケールを殺すのなら図録も同罪では?という声もあろうが、いいのである。図録は最初から「これは複製です」という顔をして判型に収まっている。等身大のふりをしないメディアは信用できる。

一つ心残りがあった。《エンジェル》である。丸椅子に座って頬杖をつく、草臥れた顔の天使。この部屋の窓は日中、作品保護のためスクリーンで塞がれているのだが、夜になるとスクリーンが上がり、天使が53階から東京の夜景を見下ろす配置になるらしい。都会に疲れた顔の天使に夜の東京を見せるという采配、完璧すぎるのでぜひ現物を拝みたかった。が、いかんせん7月である。日が長い。私が会場を出る頃になっても外は一向に暮れる気配がなく、腹立たしいほど明るかった。天使は塞がれた窓の前で、開演を待つ観客のように行儀よく頬杖をついていた。地底人が7月の太陽と粘り比べをして勝てる道理もない。夜景を見る仕事は天使に任せて、明るいうちに地底へ帰ることにした。

帰りの電車で、向かいの席には7人が座っていた。全員が微動だにせず、スマートフォンを見下ろしていた。誰もまばたきをしない。車内灯の下で、肌は一様に精巧だった。

一瞬、呼吸を確認しそうになった。

この記事を書いた人

たなか

入社年
2022年
出身地
埼玉県
業務内容
マーケティング全般
特技・趣味
美味いメシを食う

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