2023.08.08
STAFF BLOG
スタッフブログ
NOTE
雑記
暑い。
今年の太陽はいつになくやる気に満ちていて、私の周りをブンブン飛び回っている地球とかいう青く澄ました癇に障る羽虫、あるいはその表面に付着している芥子粒みたいな人間なる生物を丸ごとウェルダンにしてやろうという気概を感じる。
抽象絵画の展示会を観るために東京駅に出向いたところ、外は巨大ないきなり!ステーキと化していて、太陽が肉マイレージをせっせと貯めていた。
聞くところによると、まもなく肉マイレージ月間ランキングTOPとのこと。8月が一番の稼ぎ時らしい。
アーティゾン美術館は東京駅八重洲中央口から歩いて5分ほどの場所にある。
ミュージアムタワー京橋の1階から6階を貫くその堂々たる佇まいは、近代的で洗練された雰囲気を感じる。
それもそのはず、アーティゾン美術館は1952年開館のブリヂストン美術館を前身としており、2020年1月にミュージアムタワー京橋で新たに開館したばかりの美術館なのだ。
吹き抜けを効果的に利用して5階展示室から4階の展示物が見下ろせるようにした構造や、1階から2階を大ガラスで囲んで一体化することで外から中を見渡すことができるようにした空間デザインなど、美術館の建築美についてはさておき、脳の髄までウェルダンに焼かれた状態で抽象絵画を鑑賞した所感を雑多に記そうと思う。
抽象と文字
個人的に興味深いと思ったのは、複数の作品に「文字」が登場することだった。
というのも、文字はある程度具体的な形を持つ(社会的な合意がある)ものであって、抽象化してしまえば途端に意味を失うものであると思うからだ。
例えば、生成AIが生成した画像に謎言語の文字が混入することがあるが、この例を考えると分かりやすいと思う。
人間を描いた画像を生成するとき、「顔っぽいもの」や「目っぽいもの」を抽象化して「人間っぽいもの」を描くことは人間の絵として意味を持つが、一方で文字を抽象化して文字っぽいものを作ったとしてもそれは文字として意味を持たない。
ラウル・デュフィは感覚を重視するフォーヴィズムの画家として知られているが、文字というのはむしろ人間的・理性的なものであって、フォーヴ(野獣)の立場から見て、あるいはその他の抽象的な絵を描く立場からも、文字という理性的な合意を破壊するにせよそのまま残すにせよ面白いモチーフなのだろう。
ラウル・デュフィのトルーヴィルのポスター(1906)についても、ポスターという個別具体的な物と結びついたある種の記号が、抽象的な画面の中央に配置されることで、なにか意味的な奥行きのようなものが感じられて面白かった。
ビジネスとしての抽象絵画感
全体としてとても面白い展示会ではあったものの、後半の展開はやや凋落感が否めない。
終盤に相見えたあの手の絵はおそらく、結果としてどのようになったかというよりも、例えば筆の流れや順番などからどのように描かれたのかといったプロセスの方が重要ではないかと感じた。
自分でも絵を描くのであれば、少しは違う印象になったかもしれない。
また、全体を通して見ると、抽象絵画のピークはとうに過ぎ去っており、前衛表現としての立場を終えた中で古典的応用を模索しているように思えた。
実際、1980年代に出てきた新表現主義や存命の現代絵画の巨匠で抽象画を描いている人はほとんどおらず、思いつくところでいうとゲルハルト・リヒターくらいだろうか。
現代では、抽象絵画はインテリアとして売れやすいため、「売れるから描く」という副業的アートの立場を獲得している。
展示の時代が進むにつれて、現代の抽象画のビジネスとしての消費感が強調されているように感じた。
抽象画と作曲の類似性
ヴァシリー・カンディンスキーのコンポジションVIII(1923)や自らが輝く(1924)、ジョルジュ・マチューの10番街(1957)と対峙したとき、芸術的衝動のような何かを享受した。
それは日々の柵から解き放たれたいという自由への羨望であったり、全てを無にしてしまいたいという破壊的衝動であったり、人間の内側のもっと奥に潜んでいる必然性を帯びた感覚のようなものだった。
カンディンスキーが1911年に『芸術における精神的なもの』において、「芸術の第一目的は作家の奥にある感覚の表現である」と述べているように、彼は彼の奥にある必然性を帯びた感覚を抽象画として表現している。
特に構成の美しさやバランス感覚に秀でており、観ている側に少なからず心の揺らぎを与えることに長けている。
そしてそこに作曲との類似性を感じた。
内なる衝動を言語という具体的なパッケージに加工せず、音の強弱や重なりから生み出される空気感によって表現する、抽象画はクラシックやジャズと似ている。
あるいは内なる衝動を言語というラベルで抽象化して加工すると考えれば、どんな音楽も抽象画に類似する点が見つかりそうに思える。
抽象画の見方が分からない人には、音楽的にみることを勧めたい。
え、音楽的にみるってなんだって?
考えるな、感じろ。
意味を見出そうとする私たち
『広辞苑』第七版(2018)において「抽象」とは「事物または表象の或る側面・性質を抽き離して把握する心的作用」であり、「抽象画」とは「対象の写実的な再現ではなく、幾何学的・有機的形態を用い、形と色を自律的に扱って、自然界とは別個の効果を表そうとする絵画」をいう、とある。
『ラルース仏語辞典』(オンライン版)では「abstrait,abstraite(形容詞)」の中で「抽象芸術(Art abstrait) 20世紀の視覚芸術や造形芸術の傾向で、抽象化を施したか否かにかかわらず、目に見える現実を描くことを拒否する」とあり、『オックスフォード英語辞典(OED)』(オンライン版)の「abstraction(名詞)」では「再現の質からの自由、あるいは欠如。この自由によって特徴づけられる様式または方法(美術、特に絵画)」と説明されている。
抽象絵画を鑑賞する際に、私たちは(あるいは私だけかもしれない)その中に意味を見出そうとする。
意味を「正確に」見出すために、第一次世界大戦、第二次世界大戦、冷戦など、作品の背景を知ろうとする人もいるかもしれない。
しかし、抽象画は画家たちが「目に見える現実を描くことを拒否」した末に抽出された何も表さないものであったり、単にビジネスのためだけに制作されたものであったりする可能性もある。
私は、抽象画こそ「抽象的に鑑賞する」ことを勧めたい。
作品の見方は人それぞれ好みがあると思うが、抽象的に、自分の内側のもっと奥にある感覚や感性といったものに従って、感じてみるのはいかがだろうか。
きっと今のあなたの人生を変える作品に出逢える…かもしれない。
絵画でなくとも、日々の人との関わりにおいて、ちょっとした行為に意味づけする癖がついている人も少なくないと思う。
もちろん、相手に配慮することは社会で生きる上で必要不可欠だが、無駄に意味を見出して誤解したまま過ごしてしまうのは非常に勿体無い。
人との繋がりが再び重要視されているこの時代に、意識的に「意味を見出さない」ことも手段として必要ではなかろうか。
最後に
美術館の帰りに銀座へ向かい、たけー肉を食ってうめー酒をしこたま飲んだ。
抽象画がなんだ。たけー肉を食ってうめーと思える。こんな具体的なことってあるか?
俺は今、人間がせっせと作り上げた崇高な文化に反逆している!
なんてことを思うわけもなく、やはりただただ美味だった。
でもそれこそが具体なんだよなきっと。
抽象画もそこそこにして、一度きりの人生、具体的な思い出をたくさん作っていこうぜ!
具体的な思い出といえば…
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