戦国面白い話

開発課

■森家の人々 6人中5人は戦死

森蘭丸というと織田信長に仕えた小姓として知られていますが、この森家は結構ヒドイ目に遭っています。
まず蘭丸の父親である森可成(もりよしなり)という武将がいました。
信長の家督相続、尾張統一に尽力し、そのため信長の信任も厚かった武将です。

しかし、浅井朝倉連合軍から信長の後背を守るため、坂本で戦死。
彼の子供は6男いました。
可隆(よしたか)、長可(ながよし)、蘭丸(らんまる)、坊丸(ぼうまる)、力丸(りきまる)、長重(ながしげ、後の忠政)です。

長男の可隆は父親の可成と同年(1570年)19歳で戦死。
そのため次男の長可がわずか13歳で森家を相続。
蘭丸、坊丸、力丸は3人とも、本能寺の変で信長と運命を共にします。

長可はその後、小牧・長久手の戦いで27歳で戦死。
末弟の長重は14歳で森家の家督を嫌々継ぎました(「いやだ」という文書が残っている)。
父親、5人の兄たちはいずれも若くして戦死しましたが長重だけは65歳まで生きました。
戦国時代の『プライベート・ライアン』のような話です。

■長宗我部元親 四国平定だったのに!

土佐は古くから流人の国でした。
この土佐の一豪族から身を起こし、土佐を平定、もう少しで四国を平定!
というところまでいったのが長宗我部(ちょうそかべ)氏です。
長宗我部氏は土佐の豪族でも下から数えた方が早いほどの弱小な家でした。
事実、一度は本城が落とされ、一家離散の憂き目にあっています。

そこから家を再興したのが長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)でした。
臥薪嘗胆、少しずつ勢力を拡大し長宗我部を大きくしていきます。
この国親の息子が元親(もとちか)です。
元親は二十一歳で初陣を迎えますが、その時に初めて槍の使い方を聞き敵陣へ突撃。
見事、敵をやりで討ち取ったといいます。

国親の後を継いだ元親は辛抱強く戦略を進め、ついに悲願であった土佐の平定に成功。
戦略眼のあった元親は織田信長に接触を図ります。
畿内の平定で忙しかった信長は「四国は切り取り放題」のお墨付きを与えます。
また、元親をさほど重要視していなかったのでしょう、「鳥なき里の蝙蝠(こうもり)」
と元親を評したと言われています。

つまり、「鳥がいないような田舎の里では、コウモリのようなヤツでも評価される」
という意味で信長は元親を認めてなかったのです。

最初は「ふん!」ばかりに長宗我部家をあまり重視していなかった織田信長ですが、
元親の快進撃が続くと徐々に焦り始めます。
今風に言うと「ちょwおまw」状態です。
「四国切り取り放題」のお墨付きを出したくせに、
「土佐と阿波はやるからあとはダメ」と言い出す始末。

元親はこれを拒否し、信長と対決することになります。
畿内から信長軍が来るぞ! という時になって本能寺の変が勃発。
元親は一息つきました。
この後中央のドタバタ、つまり秀吉と家康の争いの最中に四国平定へとまい進します。
そしてほぼ四国をまとめあげた時に、秀吉軍が攻め込んできたのです。
元親の軍は降伏し、許されたのは土佐一国の領有だけでした。

結局「振り出しに戻る」のような結果になってしまいましたが、
長宗我部元親は一代の英傑だったと言えるでしょう。
やりをたばさんで睥睨(へいげい)する彼の銅像が、高知県高知市の若宮八幡宮に立っています。

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